おなつ蘇甦物語
【昭和五十四年 真光寺第十五世 金川彰信『真光寺沿革誌』(仮題)より抜粋】

 この物語は以前は相当有名で、全国の同行の間に聞こえていたようで、現在でもおなつの墓をたずね、当寺にも立ち寄る人が二年に一人ぐらいはある。
 以前は東本願寺前の法蔵館から冊子を発行していて、当寺でも先住時分から少しは用意して、お参りの人たちに差し上げていたが、これが絶版になってからは致し方もないとあきらめていた。当寺に一冊はと思って残しておいたものも、一週間貸してほしいと言って持ち帰った人がとうとう返しに来ず、全くなくなってしまった。
 当地方では在家の人の中には持っている人もあるようで、手書きで写したのを以前には見かけたこともある。
 昨昭和五十三年秋、西本願寺前の本屋で聞いてみたところ、ありますと言って出してきたのが、古ぼけてゴミまみれのもの、やっと九冊見つかり全部買って帰った。 これは京都西大條山内文華堂発行のもので、今はこの店はなくなっている。法蔵館のものは現代人にも読める字であったが、これはなかなか読めない。ふりがなが振ってあるが、そのかなが読めない。地元で希望する人があって渡したが全く読めない。なんとかしてほしいと頼まれて、手製のタイプ印刷で仕上げ体裁はわるくとも読める字にしてやろうと思いたち、昭和五十四年二月にタイプを打った。読めぬ所は判読して何とか打ち上げ、謄写をし製本をした。出来上がった頃にかつて豊岡教堂が同行のために印刷させて配布したものが見つかり、貸してもらって比較したところ、読み違えもあり、誤字脱字もかなりあったが、正誤表をそえて同行にあげることにしている。檀家の人にも配布した。その後、四月、愛媛県の人が人に借りてコピーをしたと言って送ってくれた。教堂で印刷したもの(原本は法蔵館のであろう)、愛媛県の人のコピー共に勝手な読み方をして原本と違うところがたくさんある(文華堂のものと比較して)が内容に変わりはない。
 養父町の足立実という人がこの物語に興味を持ち、いろいろ調査しているが、原本らしいものが三つ位あると話してくれた。内容が幾分違っているとのことであった。

 この物語の書き出しは「ここに但馬の国豊岡のほとり福田村という所に吉助とゆうて有徳なる百姓あり、宗門は浄土真宗則ち豊岡の城下真光寺の門徒にして単身無二の信者なりけるが、その妻おなつは夫にかわりて後世とも菩提とも知らず慳貪邪険にして念仏をいまわしきことに思いしかば、寺参りはいうに及ばずわが家の内仏へお礼を遂げたることもなし不法不信の者なれば、夫吉助これを嘆き・・・・・・」これが発端であり、吉助は妻が自分がどれだけ勧めても見向きもしないので檀那寺真光寺の住職に助けを求めたのである。この時の住職が当寺第十世恵俊であった。如何に邪険なおなつも住持の切々たるお話に、だんだん心を和らげ宿善開発して回心懺悔し深い信仰の人となるのである。「これ全くおなつが賢きにもあらず勧むる人の手柄にもあらず、阿弥陀如来深重の大悲、衆生の骨身に染みてみちみちたもう故かかるご利益のましますことよといよいよたのもしくこそおぼゆれ。」と記載されている。
 そのうちおなつは妊娠する。十月みちて出産の時期になって七日七夜難産で苦しみ、宝暦十年十月二十七日夜、三十一歳を一期として命を終わったのである。明くる二十八日に葬式をすべく真光寺へ案内に行くと、住持も急病で死んだとのことであった。
 二十八日午前10時ごろ、棺の中から亭主を呼ぶ声して、おなつは蘇甦したのである。おなかの子は死産、おなつはぐんぐん恢復していった。
 人々をあっと驚かせたのはそれからである。

 予言の通り母は翌年九月二十日に念仏のうちに眠るように往生した。近在の人々はそのことを聞いていたので、多勢集まってきて、往生の様子を見て結縁しようとする目の前で息を引き取った。
 おなつは実の往生の年月日時も定まっているのであるから一日一日とお参りの近づくことをよろこび、念仏三昧の静かな日を送り、ご本願の尊さありがたさの感謝の行動に終始したのである。
 「このことは直におなつにおいて詳しく聞き書きつけおくなれば少しも相違なし。願わくはこれを見ん人聞かん人、みなみな随喜の思いをなして同じく一味の信心にもとづき、もろ共に今度の一大事の往生を遂げたまえかし。」と結んでいる。

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