『おなつ蘇甦物語』について

 この物語は昔はたいへん有名でした。遠方から「おなつさんのお寺はこちらですか」と当真光寺を訪ねてこられた方もお一人やお二人ではありません。宝暦年間に実在したおなつという女性の稀有な体験は、釈義貫という謎の人物の流麗な筆によって活き活きと写され、安永二年(1773)版行されてベストセラーとなり、さらに次々と版を替えて昭和初期まで刊行される驚異的なロングセラーとなりました。

物語のあらまし

 ときは江戸時代、ところは但馬国豊岡のほとり福田村。物語はおなつのあまり芳しくない素行の描写から始まります。彼女は信心深い夫に似ず、お寺にも興味がなく、家のお仏壇に向かって手を合わせることも全くしません。まるで多くの21世紀に生きる現代日本人のようです。

 しかし、あるとき彼女は真光寺住職のポイントを押さえた説法によって翻然と悟るところがありました。以後は真宗のみおしえに目覚め、お念仏を喜ぶようになります。

 そしてここからが本番です。彼女は妊娠しましたが、大変な難産で、七日七晩苦しんだのち、おなかの赤ちゃんと一緒に亡くなります。さらに偶然にも同じ日に真光寺住職も急病で亡くなります。次の日、おなつ一家は仏間に棺を置いて悲しみに暮れています。そのとき突然、何の前触れもなく、おなつは生き返り、夫を呼びました。周囲は仰天しましたが、とりあえず彼女を棺から担ぎ上げて元の病床へうつし、いろいろと介抱しました。おなつは何事もなかったかのようにその場でおなかの赤ちゃんを出産し(死産でした)、そしてたったいま見てきた極楽浄土の様子を確信に満ちた口調で語りはじめるのでした。

おなつの話

 あら、どうやら生き返ったらしいわね。せっかくお浄土へ行ったのに。・・・・・・死ぬってことはふつう考えられているのと違って古い体を新しい体に替えるだけなんです。きのう、わたしは病床に伏してもうダメだと苦しんでいましたが、フッと心の中が暗くなったと思ったらもう目の前が極楽浄土なんです。すべてのことが見通せるし、自在な心境。わたしのなきがらをとりまいて皆さんが泣いているのも見ていましたよ。

 お浄土は、それはそれはすばらしい所でした。見渡す限り光り輝く宮殿楼閣がひしめきあい、花は咲き乱れ、馥郁とした香りが漂い、妙なる音楽が流れています。そしてすべてが思った通りになるし、すべてのことがわかるのです。

 こんなことを言っても皆さんお信じにならないでしょう。よろしい、証拠を見せます。わたしはこのたび一度死んで生き返りましたが、それはまだ死ぬべきときではなかったからです。いまから四年後、宝暦十三年未三月十五日にほんとうの往生を遂げます。予言です。わたしは今生より十六生まえには富貴の家の嫁であったのが、夫の妾に嫉妬してこれを毒殺したことがあったのです。その妾の怨念が代々わたしを苦しめてきましたが、このたび赤子としてわたしの身に宿り、難産で死に至らしめたのです。しかしわたしが如来の本願に遇い信心を賜ったので、永く続いた輪廻の鎖が断ち切られ、わたしもその妾も、お浄土に生まれ救われる身となったのでした。

 そういえばお浄土で真光寺のご院家さんに会いました。いきなり空を飛んできて「おまえの娑婆の命はまだ尽きておらんぞ、帰れ」と仰いましたが・・・・・・。まあ、わたしと同じ日に亡くなったのですね。なんという奇縁でしょう。

 とにかく、罪悪深重のわたしでも確実にお浄土に生まれることができるのをわたしはこの目で見てきたのです。しかも次は何年何月何日ということまで定まったのです。このうえは往生を遂げるその日まで、ありがたくお念仏させていただくのみです。考えてもみてください。うつし世は夢、この体はしばらくの仮の宿、永遠に生きる人がどこにいますか。お浄土を願わずこの世に執着してあくせくして、それで一体どうなるというのでしょう。皆さんもどうぞ日頃の心を改め、如来の本願を信じてお念仏なさって、必ず救われることが定まったというこの不安のないすがすがしい気持ちを手に入れてください。それでこそ、ほんとうに生きていると言えるのではないでしょうか。南無阿弥陀仏。(以上梗概のみ意訳)

所感とお味わい

 ご覧の通り以上の話には真宗のご法義からすればちょっとどうかと思われるような迷信的な描写も含まれています。しかしこういうわかりやすいスペクタクルは当時の民衆には必ずや歓迎されたことでしょう。

 この物語は四百字詰め原稿用紙にして20枚ほどの短いものです。筋もいたってシンプルです。それが江戸期・明治期に複数の書肆より版を重ね、昭和に入ってからは活字本も出版されました。さらに写本まで含めると20種以上が確認され、それらすべてのタイトルと内容が微妙に異なっています。このことは広範囲にさまざまなルートで書写され、伝播していったのであろうことを思わせます。

 ところでおなつはほんとうに予言通りの日に往生を遂げたのでしょうか。物語の中ではそこまで述べられていません。しかし当寺の過去帳を検すると、おなつの逝去は安永六年十一月十六日。予言の年から十四年後という大きなズレがあります。さらにいえば、おなつを教化した当真光寺の住職は第十世の恵俊でした。この恵俊の往生年も過去帳に記されています。明和四年六月十一日、物語上の死の七年後です。このあたりにフィクションとしての脚色がなされているようです。

 しかし、おなつが実在したことは疑いのないことで、お墓はもちろん子孫の方も市内福田に現存しています。この不思議な蘇甦譚もおそらく多くの部分で真実を伝えているのでしょう。

 この物語は史家の珍重するところとなり、すでにかなり研究し尽くされたといっても過言ではないと思いますが、作者である「釈義貫」についてはいまだ何一つわかっていません。釈とつくからには浄土真宗の僧侶だったのでしょうが、どこの誰なのか、一切は謎です。しかしこの物語が単なる布教用テキストにとどまらず、広く民衆に愛好され、こんなにも永く読まれ続けたのは、一にも二にも義貫の筆力によるところが大きいといわねばなりません。わずかな紙数の内に真宗のみおしえのエッセンスを住職の説法というかたちで実にヴィヴィッドに伝え、極楽浄土の絢爛たるありさまを秀逸な描写で眼前に彷彿とさせ、死人が生き返るという喜劇的なシチュエーションでは的確にすっとぼけたユーモラスな味もだす。その筆のはこびは全く驚嘆すべきもので、この短さの中に内容を詰め込めるだけ詰め込んだ物語を無理のないものにしています。

最後に・・・・・・

 当真光寺にはおなつが日々拝していたという仏像が残されています。これを「おなつ念持仏」として本堂の左余間の、聖徳太子御絵像の左隣におまつりしています。秘仏ではなく、いつでも、どなたでもご参拝いただけます。どうぞ皆さんお参りにいらしてください。お待ちしています。

(2018/04/22)

参考文献

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