一、創立

 当寺は元亀2年(1571年)恵戒により創立された。『豊岡誌』には弘長元年(1261年)の創立とあり、『豊岡市史』には江戸時代の開創とあるが、ここでは代々伝えられているところに従う。

二、改宗・移転

 当寺は真言宗の寺院として創建され、のち教義を真宗に改めた。もと福田村(豊岡市福田)にあったと伝えられている。江戸時代に徳證寺、乘福寺、西楽寺と同様に光行寺の境内へ移転し、四坊と呼ばれた。大正2年に現在の地(泉町)へ移転した。

三、現地移転の詳細

 光行寺境内にあった頃より建物の老朽化が深刻な問題とされ、数世代にわたって改築の必要が痛感されていたが、そこへ至る道は平坦ではなかった。嘉永3年9月3日の大洪水により、本堂建立のために調達した木材は全て流失。やむなく四尺余り盛り土して地揚げし、一時しのぎの場をつくったが、床下がわずか二尺しかなかったため、湿気のために柱根は腐朽し、建物は東西に傾斜した。鉄のつっかえ棒をかますことで辛うじて倒壊を防いでいたのである。
 大正2年(1913年)4月28日、「現境内地ハ同宗派寺院五ヶ寺有之布教上等一ヶ寺ノ体面ヲ保持スルコト不可能ノ場合モ往々出来仕仍テ住職ハ勿論檀徒一同常ニ寺地移転ノ必要ヲ感ジ」として、以下の名前で兵庫県知事へ寺地移転願を提出した。

住職 金川秀圓
檀徒総代 中貝重左衛門、中貝宗平、川岸芳三郎、岩本勇三郎、森垣金造、森垣源之助
法類惣代 藤本義雄、立川照俊

 同年11月13日、旧本堂を解体しはじめ、12月13日、新築に着手した。大工棟梁は鳥井市太郎。移転先の土地はもと水田で、渡辺千代吉所有の一段七畝をその娘である坊守しげ名義で寺地に提供した。一丈一尺盛り土し、門信徒総出で日夜奉仕したもようである。
 大正3年(1914年)3月20日、仮入仏ならびに寺族一同移転。その後も大門、鐘楼、仏具等を次々と整備し、大正7年(1918年)4月13日から同16日まで、宗祖大師六百五十回大遠忌ならびに本堂等落慶入仏遷座法要を厳修。満場の参詣者により立錐の余地もなく、晴天にも恵まれ、大成功を収めた。なかんずく13日には小田井レンガ場にて鋳造された新しい梵鐘を当寺まで、門信徒一同よろこびのかけ声とともに盛大に鐘ひきし、14日の遷座式では、川岸芳三郎宅に仮安置されていたご本尊を、皆で当寺まで行列して遷した。

四、北但大震災に遭遇

 大正14年(1925年)5月23日午前11時11分、兵庫県北部・円山川河口付近を震源地として、マグニチュード6.8の大地震が発生し、北但馬地方を中心とする地域に甚大な被害をもたらした。旧豊岡町(現在の豊岡市街地付近)では総戸数2,178戸に対して1,398戸、実に64.2%が全半壊または焼失した。当真光寺も、目撃者の言に拠れば、周辺の猛火の熱によって本堂の棟付近から燃えはじめ、全焼した。寺檀一丸となって念願の寺地移転の大事業を成し遂げたわずか7年後のことであった。

五、復興へ

 幸いご本尊および仏具宝物はいち早く駆けつけた檀信徒の懸命の努力によって無事搬出した。火災の中、渡辺次郎(坊守しげの兄)、三郎(同・いとこ)らが荷物を搬出し、森垣梅三、谷山敏雄、森垣昌雄らがご本尊を、江本・上垣由平が仏具を出した。福田より森垣金造、松谷亀吉、中谷より村尾守雄、中尾岩吉、下宮より中貝重左衛門、高木峯造、佐竹乙吉らが来り必死に手伝った。過去帳は、坊守しげが猛火の中をからだにしばりつけ避難したことが後の語り草になった。
 大火災の中に本堂関係のものは多く助かっている。主な被災を免れたものは、ご本尊、宗祖・太子・七高僧・蓮師他歴代ご門主の御影、宮殿、須弥壇、宗祖厨子、前卓その他の卓、過去帳、仏具いろいろ。地域全体の災害の中に信仰の厚い人々の必死の搬出努力が偲ばれる。
 震災発生の翌日5月24日、檀家総出で被災を免れた荷物を中陰・檀家総代森垣梅三宅にご本尊と共に搬入、6月18日までの27日間お預かり願った。その間、寺族は変電所裏に仮小屋を建てて住み、寺地には半永久バラックを建設した。6月18日、中陰へ五尊様をお迎えに出て、住職金川秀圓ならびに森垣梅三供奉し、夜10時に御帰山になった。

六、再建

 それからたびたび役員会を開いて相談はしたが、檀家が少ない上に大抵は被災者である。すぐにも復興したい気持ちは誰も同じ強いものがあるが、さて財源となるとなかなか踏み切れない。
 第十四世住職秀圓は若い時分から布教使として全国の寺院別院などを巡回していたが、格別に篤い信仰と温厚な人格が取り持つ縁となってたくさんの同行に敬慕されていた。これら同信の友に呼びかけて応分の喜捨を願って懸命の努力が続けられた。
 昭和2年(1927年)、例によって役員会を開き復興について協議したが話が進まず一同困り果てている最中、神戸市佐比江本願寺教場の世話係佐藤保賀という人が来訪され、神戸の同信の人々の喜捨4,000円の大金を「よろしく復興を」と差し出されたのである。この篤信者の信念と激励に動かされ、即座に再建を決裁したという。
 それからというもの、住職、役員を中心に地元はもちろん但馬から全国にかけて縁をたどって援助を願ったその労苦は並大抵ではなかった。次々と寄せられる有縁の人々からの心温まるご友援によっていよいよ再建が進められた。

昭和3年(1928年)3月20日 県知事宛再建許可申請
同4年4月1日 認可
同5年12月 竣工
予算 31,034円68銭

 木材は江原の小西勝之助が請け負い、建築は竹野の北條伝四郎を棟梁に、石場搗きから竣工まで、檀信徒総出で奉仕した。
 豊岡屈指の大寺院である養源寺も来迎寺も仮本堂を建てたが、本堂を本建築したのは震災後50年を経てからである。「あの真光寺が、よくも本建築の立派な本堂を建てたものだ!」と、まちの人々を驚かせるほどの立派な本堂が被災後まもなく完成したのである。

七、第十四世坊守・住職の往生

 しかしこの再びの大事業に持てる力のすべてをふりしぼり、精も根も尽き果てたものか、まず住職秀圓が胃癌の大患に罹り、両三年の闘病を経てようやく全快したものの、坊守しげは昼夜を分かたず看病に苦心し一日として安眠の余地なく、不幸にして病魔の犯すところとなり、医薬功を奏せず、昭和8年(1933年)10月10日五十二歳を一期として終に楽邦の人となった。九日市・渡辺千代吉長女にして長専寺の孫、十七歳で入寺して以来布教使として留守がちであった住職の不在をよく守り内助の功はなはだ大であった。
 さらに昭和14年(1939年)1月15日午前9時、第十四世住職金川秀圓が六十五歳にして入寂。徳島県三好郡三野村大字太刀野村・千葉秀膳の長男、明治30年(1897年)に入寺し、しげ子とのあいだに一男一女をもうけたがいずれも早世、寺跡移転の大事業に心を砕き、事成ってのち僅々にして烏有に帰し、再建に東奔西走、漸く老境に入り法悦の余生を送らんとする齢に突如坊守と死別、およそ人生のあらゆる悲痛をなめ尽くし、しかし信仰は深く徹底して動ぜず、一難襲うごとにこれを甘受するのみならず却って法悦の助縁として門徒を同化し、嘗て怨嗟の状態を呈することがなかった。生涯を当寺の護持発展のために捧げ尽くし、「仏さまのような人」と言われた。

八、第十五世彰信の決意

 せっかく復興した立派な本堂であっても、仏具までには手が回らず、古くて規格の小さい、幾百年も昔の、虫に食われ鼠に荒らされたままの、しかも震災時無理をして搬出した痛みのひどい宮殿・須弥壇など見るに耐えない有様であった。両余間にも畳はなく、ござを敷いていた。ご本尊前の上卓すら「みかん箱」程度のものであり、法要のときは打敷をかけて隠していた。
 金川彰信は和歌山県有田郡広川町正法寺住職・雑賀貞浄の四男、昭和9年(1934年)、龍谷大学専門部在学中に出石組西宗寺住職・内田舜円龍大教授の世話により二十歳で入寺し、翌昭和10年(1935年)同教授の媒酌により鳥居長専寺住職・玉岡託命の四女正子と結婚した。入寺したとき本堂の悲惨な有様を目の当たりにして、内陣を整えることが自分の生涯の仕事であると心に誓ったといわれる。
 彰信は昭和13年(1938年)8月31日付で新田尋常高等小学校の代用教員として初めて教員の道に入った。布教使として活躍していた実父にならって布教使として進ませようとする住職秀圓と檀家役員の大反対を押し切って勝手に願書を出していたのである。入寺以来、檀家の少ない寺の法務は住職ひとりで充分足りている。何とか収入を得ようと布教使の出講先を頼んでも、かけ出しにはなかなかない。のみならず実父や養父の布教使生活を近しく見て、家族と別れ別れの生活の、子供の教育上の悪影響、またその正常な姿でないことに嫌気がさしていた。疎外感にさいなまれ、精神的に空しい三年間を過ごしたのち、学校教員ならば法務と両立できると判断したのである。殊に大阪在住時代、実父・雑賀貞浄の説教所での日曜学校、童話、紙芝居、人形劇などの経験がある。小学校はうってつけの仕事であった。
 ところが昭和14年(1939年)1月、彰信教職着任後わずか5ヵ月弱にして第十四世秀圓が入寂した。そのあとを襲って彰信二十四歳にして第十五世住職を継承し、同時に教員と住職との二足のわらじ生活が始まった。いくら檀家が少ないとはいえ兼務は大変である。殊に当時の足は自転車だけである。葬式に急いで帰り、着替えてお参りをする。すめば着替えてすぐ自転車で走り学校へ。辛いことも悲しいことも度々あった。その中でも校長や同僚の理解には恵まれていた。「寺のことで勝手せねばならぬから」と常に考え、働けるときは人一倍働いたのが認められたものであろうか、四十五歳で奈佐小学校の教頭に就任、学閥の嵐の中で、遅くはあったが、五十二歳で竹野町立森本中学校の校長になり、満六十歳で、昭和49年(1974年)3月31日付で定年退職、通算36年の教員生活を終わったのである。その後も八十歳で長男敏弘に代を譲るまで住職の座にあり、在任56年は記録に残っている限り当寺最長である。この間に少しずつ篤信の人々に特志を願っての内陣整備、本堂営繕、宮殿・須弥壇等新造営、はなれ新築、庫裏修繕、貸しガレージ設置による経済基盤の確立、お内仏新調、過去帳の整理、当寺の沿革誌手記の執筆、境内舗装、消雪用井戸工事、本堂屋根全面葺き替えなど業績はなはだ多く、真光寺中興の祖とも呼ばれた。

(2020.03.06 未完)

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