御布施について ——— ある問答

Q. 亡父の五〇回忌と亡母の十三回忌を併修してもらいたいが、いくら包めば良いのか。

A. いくらでも結構です。決まりはありませんので、ご自身のお気持ちのままにお包みください。

Q. 意地悪をしないでハッキリ言ってもらいたい。いくらだ?

A. ではハッキリ申し上げますが、それはご自身でお決めにならなければならないことです。寺や僧侶から言われた通りの金額を包むなら、それは経済行為と同じです。

Q. 御布施は経済行為ではないのか。

A. 違います。私がお経をとなえたことに対して御布施をいただくとしても、それは対価ではありません。ご自身の仏道実践です。お金にしろ品物にしろ、私を素通りして仏前へ供えられるものです。だから私を含め、僧侶はみんな、御布施の多寡に関係なく心を込めてお経をとなえます。御布施が十万円のときも千円のときも全く同じように礼を尽くして全身全霊を込めます。金額は関係ないのです。

Q. あるお寺さんでは、一周忌はいくら、四十九日はいくら、と御布施の料金表を作っていると聞いたが。

A. 想像ですが、そのお寺さんは非常にお忙しくて、説明の時間が取れないので、寺院護持のためにやむを得ずそのようになさったのではないでしょうか。おそらく本音では、施主さんたちが御布施の意味をわかってくださり、自主的に料金表通りぐらいの額を包んでくださることを期待していらっしゃると思います。

Q. それなら御布施はいくらでもいいなどと公言するのはマズいのではないか。極端な話、通夜・葬儀・初七日と丸二日間つとめた心づくしの葬送儀礼に対して一円しか包まない不心得者があらわれたらどうするのだ。

A. ご心配なく。そのようなことはありません。なぜなら一円の御布施を包んで僧侶をわずらわすくらいなら仏式儀礼なしで葬送したほうがいいということは誰の目にもあきらかだからです。あえて御布施をしようという方の中には節約を第一に考える方はいません。心の中にわずかなりとも人間以上の何か、かりに仏と言っておきますが、そういうものを信じる敬虔な気持ちがあり、その気持ちが御布施を包ませる原動力なので、一円や十円にはならないのです。

Q. その気持ちが全くない人は?

A. 現代においては、そういう方も珍しくありません。それも一つの価値観であり、立派な見識です。そういう方は葬送にしろ年ごとの弔いにしろ、僧侶など呼ばず、もちろん御布施など包まず、ご自身の信じるやり方で礼を尽くして敬意を持って行えばよろしい。どのような形式でも構いません。宗教的でなくてもいいのです。一番よくないのは、ご自身が信じてもいないことを、むりやり強いられてすることです。心がこもっていない御布施など無意味ですし、迷惑です。

Q. しかし実際問題として、みんなそこまで考えずに伝統宗教の形式でやっているのではないのか。そのほかに選択肢があるとは思えない。

A. 果たしてそうでしょうか。結婚式などは、最近は人前式といって、神仏ではなく、お集まりの皆様の前で結婚の誓いを交わす無宗教の形式が増えているそうです。葬儀でも、ミュージシャンの方は音楽葬ということをなさいますし、ある文学者の方だと、高名な作家の方に祭祀者になっていただき、万葉集の挽歌を読み上げることで葬送儀礼に代えたと聞いたことがあります。決して宗教形式がすべてではありません。時代は変わっています。

Q. 僧侶であるあなたがそうやって無宗教形式の宣伝をするのはおかしくないか?

A. 私は個人の信念が社会通念上容れられないかのように思い込む先入観は不幸の元凶だと思いますので、いろいろな選択肢があることを声を大にして訴えます。しかし実際のところ、宗教の力も借りずにゼロから独力で納得感のある葬送儀礼を営むのは大変なご苦労の伴うことであろうと心配しています。ですからご葬儀などをご縁として、これまでご縁のなかった皆様にも、広く深い宗教の世界と出遇っていただきたいと願っています。

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